屍の青春

 どこからか聞こえる子どもの悲鳴で目が覚めた。それは決して恐怖からやってきたものではないだろうし、一概に「悲鳴」と片付けてしまうのは語弊があるかもしれないが、とにかく、脳天を突き破るような幼い声だった。横に目をやると、どうやらスマートフォンも私と一緒に眠りこけていたらしい。時間を確認するために叩き起こそうとするも、彼はうんともすんとも言わなかった。とにかく、残り僅かな十代を擦り減らすことに対する罪悪感に苛まれる前に、一刻も早く何かをどうにかしようと思い、身体を起こした。その瞬間、地球がぐるぐると回り、目には何も映らなくなった。ただ、しとど降る雨音が鼓膜を激しく殴りつける中、この世のありとあらゆる憂いを吸い尽くしたかのごとく重い脳みそを抱えることに必死になった。しばらくして、雨なんて一粒も降っていないことに気がついた頃には、既にまともになっていた。大袈裟な表現を用いておいてなんだが、ただこの日は貧血が酷かっただけである。視界を遮る鬱陶しい前髪を分けている最中に、なんだか全てが面倒に感じられた。紅梅色のカーテンがゆらゆらと揺れる度に、光が踊りながら見え隠れする。それを眺めながら、私はどうでもよいことばかり頭に巡らせた。

 人はよく「私は一人の時間がないと生きていけない」などと言う。文字通りの解釈するのが正しいのであれば、全く同意である。私が「自分」として生きているのは、一人でいるとき、とりわけ、好きな本や音楽や絵に触れているときだけだ。それ以外は、「自分」という特定の誰かを演じている気がしてならない。これはきっと自分の精神的な問題なのだと思うし、どうにかしようと努力してもどうにもならなかった。それどころか、誤った努力を続けていると、表の「自分」と裏の「自分」の境界線を見失い、狂気に陥りそうになったこともあった。世の人々がどうして平静を保ち生きているのか、私にとっては不思議でならない。

 ふと、ピアノの上に置いてあった音楽雑誌が目に入った。まだ頭の中でパチンコ玉がぐるぐると回っているような感覚が残っていたので、たった数歩の距離なのに、まるで北米を横断してきたかのような面をして、それを手に取った。つい最近、古書市で偶然手に入れたものだ。好きなアーティストのインタビューが数頁に渡って掲載されているのだが、私はその写真を眺めるだけで幸せになれる。その「幸せ」がどの程度かというと、ぜんまい式の玩具のように部屋をぴょんぴょんと跳び回ったり、意味もなく階段を上下するほどである。とにかく、いつものように幸せな気分に浸り、インタビューを読み返した。彼は、ある一定の年齢以前の自分を、過去ではなく、全くの別人として認識しているという。さらに、ある一定の年齢以前を振り返ることは、赤の他人の人生を振り返るようなものだと述べていた。偶さか、私も似た感覚を抱いていたので、この記述には驚愕した。私は、今でこそ陰鬱な性分であるものの、かつての自分は底抜けに明るく活発だったと思う。信じられないかもしれないが、何事に対しても積極的で、人生を楽しむことに全てを費やしていた。まるで、というよりも、まさしく、私と彼女は違う人間だ。私には、彼女に花を手向ける代わりに、ただただ、自分のような醜悪が生き長らえていることを悔うことしかできない。

 書きたいことは他にも山ほどあった気がするが、なんだか異様に疲れたので、中途半端だがここで了することにする。