宿世

 目を閉じ、息を止め、全部が嘘であってくれと本気で願った。水中は異様なほど静まり返っていた。給湯器が忙しく働く音と、自分の心臓の音だけが生々しく響く。この行為がどれほど馬鹿馬鹿しいかなんて、自分が一番よくわかっていた。その証拠に、次の瞬間に私は顔を上げて大きく息を吸い込んでいた。失った酸素を取り戻すのはいとも簡単だ。私は死ななかったし、死ねなかった。過去が変わることもなかったし、過去を変えることもできなかった。ただ、突き付けられた現実を受け入れることができなくて、全てを投げ出したいと願っていたことは確かだ。

 今日、このことをふと思い出した。別に最近の出来事ではない。しかし、人生でこれほど凄惨な日々は、恐らく二度と訪れないと思う。実は今こうしてる間に、ある一枚のアルバムを流している。私は具体的なアーティストやアルバムの名前を挙げることがあまり好きではないので、日本語で「天空」を意味する単語が表題として付けられているものとだけ明記しておく。とにかく、このアルバムがその名の通りとても美しい作品だということさえわかってもらえればよい。私は、その何よりも美しい音の連なりを聴いているだけで、そして、音楽を「美しい」と感じられるだけで、あの頃よりかは幾分も幸せだと自動的に確認することができるのだ。これは、人間が自分よりも劣っている他者を見下して自己肯定感を高める行動とよく似ている。もっとも、比較対象が他者ではなく、過去の自分自身であるだけ私の方が余程人道的だとは思うが。そう考えると、あの頃の記憶も一種の「保険」として、私が自我を保ち続けるための重要な役割を果たしているわけであって、起こるべくして起こったことなのかもしれない。

 一時間と少しのアルバムが終わり、どこからか聞こえてくる虫の声以外には再び何も聞こえなくなった。知らぬ間に秋は目前だったようで、少し肌寒く感じられる程度の外気が心地よい。一か月後、半年後、一年後、何を考えて生きているのかはわからないが、きっとこれからも陰の記憶を糧にして生きていくに違いない。人々には悪趣味だと嘲笑されるかもしれないが、そうすることで自分が自分でいられるならどうだっていいし、何より他人を不必要に傷つけずに済む。そんなことよりも、いい加減眠らないと朝に追い越されてしまう。ほんのりと雨の匂いがするが、気にせず今日も窓を開けて眠ることにした。

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