花摘みⅡ

  以下の文章は、全て過去の下書きやメモ書きからの抜粋です。全く関係の無い事柄について記しているので、脈絡はありません。1つ目と2つ目は二年と少し前、3つ目は二週間ほど前のものです。

 

 謂わば、この作品の主人公は悪である。幼少時代より純潔主義を強いられ育ったものの、些細なことで異常なまでの情欲を生んだ。対して、ジャックは善である。十字架を握り、死の瞬間を迎えるまで神を信仰し続けるほど敬虔かつ純粋な基督教徒だ。しかし、一概に彼らを対照的な存在として括ってしまうのは荒唐無稽ではなかろうか。彼らは思想がそれぞれ対極であるだけで、本質は非常に似ているように思える。主人公は、自らの信仰心だけを道標として拷問に耐え続けるジャックを、英雄感情や犠牲精神に酔い痴れていると嘲る。無神論者の彼にとって、神を拠り所として十字架を握る基督教徒の姿は、ひどく滑稽かつ馬鹿げて見えたに違いない。しかし、彼もまた悪に陶酔しているのである。善の行いをしようが、善の意志を抱こうが、蟻地獄のように人間は悪に堕ちてしまう。悪は決して裏切らない。そういった確信を抱き、善や正義、純潔主義を愚弄し続ける。そして、終に殉教者ジャックは基督教の禁忌を犯し、死を選んだ。と同時に、主人公の存在は全く無意味なものになったのである。主人公は予期せぬ死を嘆いた。虐げる自らの悪としての存在意義は最早ない。両者共に運命に翻弄され続ける運命を辿ったのである。
ㅤ何故、誰も救われなかったのか。それは、誰しもが、何かしら自らの思想、世界観を持っているという点にあると考える。それらはまるで、脆くて重く、各々の腕の中で輝きを放つ金剛石だ。このことは、現代、そして未来を生きる我々にも通じることがあるのではないだろうか。無残にもこの物語は無慈悲にも凄惨に幕を閉じた。神は人間を救うのか。正しいのは善なのか悪なのか。どのような主張がされようが、結局は誰にもわからないのである。何故なら、大きさは違えど、人間の数だけ異なる金剛石が存在するからである。
ㅤそして、ただ一つはっきりと言えることは、思想とそれに対する熱き信仰を生み出すのは、神でも他者でもなく、いつも我々人間自身であるということだ。文中に挙げられている純潔主義も英雄主義も犠牲精神も、それが芽生えた要因は各々にあり、それぞれが知らず知らずのうちに自らの中で発達していったのである。それと同様に、神を信仰すれば我々の心には神が棲むようになるのだ。そういった点では、神は本当に実在するのだと思う。

 

 私は宇宙人を見た。恐ろしいほど大きな雨雲が、お腹を空かせた獣のように、あんぐりと口を開けて私を待ち構えていた。それから間もなく、雨雲はざあざあと唸り声を上げて、雨粒たちを私の街に落とした。それは、まるで童話に出てくる悪い王様のように格好良くて、思わず見とれてしまった。

 

 高架駅のホームで電車を待っていた。7月も半ばに差し掛かり、生温い風が前髪をさらっていく。そういえば、最近、この線で一日に二度も人身事故が起こったらしい。私は一番前に並び、急行列車の到着を待っていた。私の後ろに行儀良く列を作る人々は、通勤か通学か、はたまたそれ以外の用事か、みな疲れきった表情をしていた。しかし、疲れきった顔をしていると言えど、画面を眺める目、ページを捲る指、気怠そうに揺らす足、確かにそこに「生」が存在している。今、私の後ろにいる人々は生きているのだ。そんな当たり前なことが、何故かとても不気味なことに思える。

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