煉瓦

 大学生になって一か月と少し、異様な違和感が私を取り巻くようになったのは、決してつい最近のことではない。思ってもない言葉を吐き、嫌いなものを好きだと偽っていると、ついに身体の中に伏在していた「自我」が悲鳴を上げた。それから私は、再び自分のことがわからなくなった。ただ断言できるのは、入学当初は自らのアイデンティティとして役立った「Twitterにいる人」という諱も、今となってはただの足枷となってしまったということだけである。

 ≪一般教養の授業で、十九世紀後半の奴隷貿易を扱ったある映画のワンシーンを観た。老若男女問わず、たくさんの奴隷たちが奴隷船で輸送されていた。船内の環境は「劣悪」の一言に尽きるものであり、勿論、流行りの病が蔓延することも度々であった。そうして、売り物にならないと判断された奴隷たちは、身体に錘を括りつけられ、そのまま海に破棄される。彼らは抗う。喚き、必死に四肢をじたばたさせる。しかし、錘はそんなことも知らず、彼らを、闇のように暗く深い海へと連れ去っていった。≫

 こんな私にも、大学生活にそれなりの希望を抱いている時期があった。入学前、私がある人と交わした言葉が、ふと脳裏に過る。「大学では、表面だけで相手の人格を判断せずに、体当たりでいろんな人と関わり合いたい」。しかし、それは空言だった。いくら私がそのような人間でなくなったとしても、他人がそのような人間であるのなら全く意味がない。生憎、この世界はそんな人間で溢れかえっている。少なくとも私が生きる社会の中では、こんな稚拙な考えなど、既に死んでしまっていたのだ。

 時々、あれだけ思いを馳せていた「華のキャンパスライフ」の破片を探してしまう。これからどの方向に歩けば、胸を張って歩ける道へと辿り着くことができるのだろうか。後ろめたさなく生きていくことができるのだろうか。私は、この荘厳な校舎の中に一人、取り残されてしまった。

広告を非表示にする